ホンダは早い時期からレースに積極的に参加し。
1954年のTTレース、F-1レース、輝かしい記録を残しています。
レースに掛ける膨大な時間と試行錯誤を繰り返し、その技術への姿勢がホンダの魅力なのです。
自動車後進国ニッポンの弱小メーカーであったホンダが、世界のレースに参戦するなど考えられないことでした。
しかも、トヨタ、日産といった大メーカーを差し置いて。
本田宗一郎をはじめ、エンジニア達の作りたい物を作る。
それを多くの人に楽しんでもらう。そんな町工場だった。
無線機用エンジンを改良して、自転車にとりつけた製品を開発し
試行錯誤を重ねながら次々に魅力ある製品を開発していきます。
このようにバイクメーカーとしてスタートし
やがて、1963年に四輪車の生産をはじめます。
現在に至るまで多くの革新的技術を産みだし、提供してきました。
作るものには、作る側の人間の並々ならぬ思い入れが感じられる。
「新しく素晴しい技術」「すごいパワーのあるエンジン」
「作りたくて作る」「作りたいものを作る」
あたりまえのようではありますが、非常に難しい事なのです。
最近では、自立歩行の出来るロボット「P-3」を発表しました。
何かやってくれる会社、それがホンダスピリッツ!では。
略歴 | |
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明治39年11月17日 | 静岡県磐田郡光明村(現天竜市)で生まれる。 |
大正11年 | 尋常高等小学校卒業後、アート商会(自動車の修理工・東京・本郷)に入社 |
昭和 3年(21歳) | 浜松にアート商会浜松市店を設立し、工場主となる。 |
昭和 6年(24歳) | 車輪の木製ホイールに代わる、鋳造製スポークホイールを発明。 |
昭和 9年 | ピストンリングの製造を行う。 |
昭和 7年 | 藤山一郎のクルマ(ルノー)を修理する。 |
昭和 9年 | ピストンリング開発開始 |
昭和10年11月20日 | 磯部さちと結婚 |
昭和12年(30歳) | 浜松工業高等学校(現静岡大学工学部)機械科聴講生となる。 |
昭和14年 | 東海精機重工業(株)入社、同社取締役社長就任。 |
昭和21年(39歳) | 本田技術研究所を設立、内燃機関、機械の研究、製造を開始。 |
昭和21年 | 自転車用補助エンジン通称「バタバタ」を販売 |
昭和23年 9月24日 | 浜松市板屋町257番地に、本田技研工業(株)を資本金100万円で設立 |
昭和24年(43歳) | 「ドリームD型」発表。藤沢武夫と出会う。 |
昭和27年(45歳) | 東京都中央区槇町3-3に移転・小型エンジンの発明により、藍綬褒章受章 |
昭和36年(54歳) | 自ら研究部門の陣頭指揮を取り、二輪車の世界グランプリレースを制覇。 |
昭和39年 | F1に挑戦、V型12気筒1,500CCと我が国初のレーサーを完成させる。 |
昭和41年(59歳) | グランプリレースで5種目で史上初の完全制覇達成。 |
昭和48年(66歳) | 本田技研工業社長退任、取締役最高顧問となる。 副社長の藤沢武夫と共に、そのさわやかな、引退ぶりは脚光を浴びた。 |
平成元年 | 日本人として初めて米国の自動車殿堂入りをはたす。 |
平成3年 8月5日 | 逝去。(享年84歳と8ヶ月) |
その時代は自動車なんか田舎町ではなかなか見かけない物だった。
アート商会で車の技術を習得し、本田宗一郎氏は十分に力を発揮した。
自動車に対する熱意は並々ならぬもので、特にエンジンに関しては
音を聞いただけで不具合が分かるほどの天才エンジニアでした。